2015/11/04

『季刊すんぷ』第5号


『季刊すんぷ』第5号となる、2015年冬号の発行が近づいてきました。

2年めとなる第5号の特集は『パワースポット駿府へ。』

久能山東照宮が絶対的なパワースポットであることを歴史的裏づけによって確認。そこから「パワースポット」というものについての客観的な再定義を試みます。

梅ヶ島温泉では、主にお泊まりのお客様が対象となりますが、旅館・民宿などで、今週末日曜日ごろからお読みいただけます。無料です。

久能山東照宮での配布は、正式な発行日となる11月19日(木)からを予定しています。



2015/08/26

余ハ此處ニ居ル 〜すんぷ特別版〜 の販売が始まりました!


おかげさまで、余ハ此處ニ居ル 〜すんぷ特別版〜 の販売が始まりました! 現在、下記にて販売してくださっています。(定価300円+税)


かどや様
☆久能山東照宮石段の上り口、石鳥居前のおいしいお店です。
静岡市駿河区根古屋404-1-1
▶Google Maps


静岡物産商会様
☆国1川辺町交差点近く、香りのお店。お仏壇と仏具の専門店。
静岡市葵区常磐町3丁目4-13
▶Google Maps

2015/04/25

御鎮座四百年大祭における御宗家の墓参

2015年4月15日から、19日までの5日間、久能山東照宮では、御鎮座四百年大祭が斎行されました。

例年であれば、4月17日の家康公の命日(神忌)、その1日だけ例祭が斎行されますが、今年は400年ということで、50年に一度の大祭です。

その大祭の第三日の儀「御例祭」には、例年通り、德川御宗家第18第当主である德川恒孝さんが祭司として招かれ、落合宮司をはじめとする久能山東照宮の神職の皆さんが御例祭に奉仕されました。

そしてその後も例年通り、御例祭参列者の一行は、神廟(神君德川家康公の墓)に墓参して、その後、神廟前にて記念撮影をしました。

以上、全てが例年通り、毎年のことなのですが、御大祭となった今年、例年と違ったのは、全国放送をする報道各社がその一部始終を見守ったということです。

4月17日当日の、NHKの報道の全文を以下に引用します。

徳川家康400回忌 命日に御例祭
(2015年4月17日 13時56分 NHK News Web)
ことしは徳川家康の400回忌に当たり、命日の17日、静岡市の久能山東照宮で家康の遺徳をしのぶ御例祭が行われました。
江戸幕府を開いた徳川家康は1616年の4月17日に75歳で亡くなり、静岡市駿河区にある久能山東照宮に葬られました。ことしは家康の没後400回忌の節目の年に当たり、命日の17日に御例祭が行われました。
神事では、徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんが司祭を務め、古式にのっとった装束を身にまとった神職などおよそ350人が53段ある石段を上り、社殿に向かいました。そして、東照宮の落合偉洲宮司が家康の遺徳をしのんで祝詞を読み上げたあと、雅楽の演奏に合わせて春を告げる舞が奉納されました。このあと、一行は社殿の奥にある神廟と呼ばれる家康の墓を参拝しました。社殿の周りには多くの観光客が集まり、厳かな神事に見入っていました。
東京から来たという男性は「前から来たいと思っていましたが、きょうが命日だとは知らず、神事を見ることができ幸運でした」と話していました。また、木遣りを奉納した望月利郎さんは、「記念の年にできて、すがすがしい気分です。家康さんもおりてきて喜び、これからも駿府の町を守ってくれると思います」と話していました。

以下、当日当社にて撮影したその時の模様です。

黒の衣冠姿の御宗家らが神廟(德川家康公の墓)に参詣

御宗家らが家康公の墓前に整列

御宗家らが家康公の墓を参拝

家康公の墓前にて記念撮影

2015/02/22

『季刊すんぷ』2015年春号を配布しました。



神君徳川家康公が東照大権現として御鎮座されて400年めとなる2015年。2月18日の大安吉日に発行となった『季刊すんぷ』の vol.2 となる2015年春号を、2月21日(土)、22日(日)の両日、各1,000部ずつ、合計2,000部を、久能山東照宮の社務所前にて無料配布いたしました。両日とも午後1時ごろまでには配布が終了してしまいましたので、なかなか手に入らないという状況が続いていますが、当サイトでは、PDF版を公開しておりますので、中身を読んでみたいという方は是非、ご覧ください。

2014/11/02

徳川家康公の御遺骸が日光へ運ばれていない明白なる証拠

久能山東照宮の、神廟(神の墓という意味)

日光の、奥宮(墓ではないという意味)

徳川家康公の御遺骸が日光へ運ばれていない明白なる証拠は、少なくとも以下の3つです。


1 日光には「廟」がない。

日光東照宮にあるのは、「奥宮御宝塔」です。そこにはお墓を意味する「廟」の字がありません。


2 日光の例祭は、家康公の御命日ではない。

日光東照宮では、家康公の御命日である4月17日におまつりをしません。
「まだ寒い時期だから1か月遅らせている」なんていう “言い訳” をされているようですが、本当に御遺骸があるなら、そんな馬鹿な話はありません。「御命日より暖かいことが大事だ」というのでしょうか? ギャグにもなりません。

家康公の御命日、4月17日に、毎年きちっと例祭を行なっているのは、久能山東照宮と、日光以外の全国ほとんどの東照宮です。


3 日光の例祭に、御宗家が「墓参」しない。

これは将軍家が代々曖昧にしてきたことのようですが、家康公の御命日から月遅れの例祭となる日光では、徳川御宗家は「日光の墓所」ということになっている「奥宮御宝塔」に参拝されないと聞きます。一体どういうことでしょうか? そこが本当に家康公が眠る墓所であるなら、月遅れとはいえ大事な例祭の日に「墓参」されないというのは、それが「お墓」ではないことの何よりの証拠です。


歴史学者の先生方へ、お願いです。

「日光に徳川家康公の御遺骸が埋葬されている」という説の間違っていることは明らかです。かくも明らかであるにも関わらず、それでもまだ間違った説を「支持する」とされる先生方には、もっと誰でも納得できる根拠をお示しいただきたいと存じます。

下野新聞『静岡市民は「ここに居る」』への反論

 2014年10月16日(木)の下野新聞に、『世界遺産 聖地日光 第1部 神になった将軍(6)』、見出『静岡市民は「ここに居る」』という記事があります。

 静岡商工会議所「余ハ此處ニ居ルプロジェクト」を紹介してくださっており、下野新聞様には、厚く御礼申し上げます。ただ、書かれている内容については、「日光に家康公の御遺骸がある」という結論にしたいようで、当方としましては、しっかりと反論しておかなければなりません。

 この記事では、何とかして「家康公の御遺骸は日光にある」と証明しようとがんばっていますが、かえってそれが証明できないことであると、明らかになってしまったようです。以下が記事の後半部分です。

 しかし研究者の多くは、遺体が日光に運ばれたことを規定の事実とみている。
 上野寛永寺の元執事長浦井正明さん(76)は「家康は母於大の方が薬師に願をかけ、生前から薬師の申し子と言われた。でも彼は死んで薬師の元に帰った。代わりに世に遣わされたのが、神になった東照大権現という考え方をしている。従って家康と東照大権現はイコールです。日光東照宮の本殿の後ろの扉が観音開きになっているのは、拝殿までしか上がれない大名が、そこで東照大権現を拝むと、後ろの(奥社にある)宝塔の家康を拝むことになる。遺体が久能山に残っていては意味がないのです」と言い切っている。
 東北大助教の曽根原理さん(53)も「天海編集の東照社縁起に(遺体を移した)藤原鎌足の例を踏襲したとあり、当時の宗教の感覚でいけば、移さない方がかなり不自然。素直に取るべきだ」と指摘している。
 遷宮に同行した公卿烏丸光広は日光山紀行に「尊體を日光へ遷し奉らる」と記している。もっと重い事実は、家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っていることだろう。

 以上の記事からわかる事実は少なくとも次の3つです。

 (1)栃木県民や下野新聞も、日光東照宮に家康公の御遺骸が本当にあるのかどうか、確信できていないということ。

 (2)なんとか確信しようとするために、「御遺骸は日光」という説を取る「研究者」の方々のご見解を必死に紹介しているということ。

 (3)ところがそれら「ご見解」も、非常に脆弱な論拠によるもので、何の証拠にもならないということ。

 それら「ご見解」に対して、以下に反論を試みます。

 1 上野寛永寺の元執事長浦井正明さんのご見解について

 「遺体が久能山に残っていては意味がない」と言われていますが、それはつまり、「日光の奥社に勧請された東照大権現が、霊としてそこに存在しても意味がない。意味があるのは御遺骸だ」と言ってることになります。それはつまり、「御遺骸イコール東照大権現だ」ということになり、「全国各地の東照宮が東照大権現をお祀りすることは意味がない」と言っていることと同じです。さらに言えば、日本の各家庭に仏壇があって、家人が仏壇に向かって先祖を拝むことも意味がないと言っていることになるのです。これは日本人の基本的な宗教心さえ無視した暴論というべきものです。

 2 東北大助教の曽根原理さんのご見解について

 「藤原鎌足の例を踏襲したとあり、当時の宗教の感覚でいけば、移さない方がかなり不自然。素直に取るべきだ」
 曽根原さんの言わんとするところは少なくとも、「家康公の御遺命よりも『宗教の感覚』が優先された」という意味になるはずです。家康公の御遺命は「躰を久能山に葬れ」です。「宗教の感覚」といわれるものが、御遺命を破らなければならないほど重要だったのでしょうか? それが仮に重要だったとして、曽根原さんのご見解を正しいと認めるためには、将軍秀忠公をはじめとする幕府中枢にいた人々が「御遺命は破って良い」と考えていたという証拠が欠かせないものとなります。しかし歴史上、そんな証拠は存在しないのです。

 3 公卿烏丸光広による日光山紀行での記述について

 「尊體」の意味するところが何なのかが問題です。それが「土葬され十か月を経た家康公の御遺骸」という意味であるとする根拠がない限り、これも証拠にはなりません。

 4 「もっと重い事実」について

 これは下野新聞の記者さんのご見解でしょうけれども、「家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っていること」をもって、「家康公の御遺骸も日光に眠っている」とする証拠にはなりません。日光にも東照大権現は御鎮座されているのです。御鎮座されているからといって、御遺骸もあるという意味にはなりません。
 そもそも狹い久能山には、家康公以外の誰一人とも、新たに墓所を作れるような面積がありませんし、仮に無理をして墓所を作るようなことをすれば、山ひとつ家康公の墓所として聳えているわけですから、その神聖なる墓所を侵すことになってしまいます。そんなことは、たとえ「二世権現」を名乗った家光公であっても許されないということは、家光公自身が一番よくわかっていたはずです。つまり、「家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っている」ということは、かえって、日光が家康公の真の墓所ではないことを証明していることにさえなり得ます。

2014/11/01

『季刊すんぷ』創刊!


本日、ついに『季刊すんぷ』が創刊されました。

あいにくの雨模様でしたが、三連休初日の土曜日、久能山東照宮には午前9時から午後3時までの間に、約700人の参拝客が訪れていました。

700人というのは、『季刊すんぷ』創刊号を手渡しで配布させていただいた方の人数です。結婚式と七五三で、それどころじゃないという方々を除いて、ほとんど全部の参拝客にお渡しできました。

「どちらからですか?」という私たち “黒装束部隊” の問いかけに、ほとんどの方が県外からお越しで、東京、千葉、埼玉、群馬、神奈川などの関東方面、岐阜、大阪、広島など西の方からの方々や、隣県山梨からの方もいました。

アドマック出版代表の興津諦と、アルバイトの写真右側の女性の二人は中国語もできますので、中国からの数人のお客さまにも「無料の雑誌です」と中国語で言ってお渡ししました。中国人なら漢字で大体わかるだろうと思ってのことです。

予定している手渡し部数は2千部。明日の日曜日も朝から配布いたします。まだ1300部もありますが、お天気が良ければこの2日間で予定部数の配布が完了します。

「是非、印刷製本されたものを手に入れたい!」という方は、明日の11月2日(日曜日)、久能山東照宮へお越しください!

2014/10/30

STaDShizuoka静岡CB市民塾によるCM



この動画は、STaDShizuoka静岡CB市民塾によって制作され、「全国わがまちCMコンテスト」に応募された静岡市のCMです。

「余ハ此處ニ居ル(よはここにおる)」をコピーとして採用してくれています。

2014/08/12

『すんぷ』創刊号を飾る対談記事の取材


11月に発刊する季刊『すんぷ』創刊号を飾ってくださる、久能山東照宮落合宮司様と浮月楼社長久保田様による対談を取材させていただきました。姫岡権宮司様にもご同席いただきました。皆さんのお力により、良いフリーペーパーができると思います。(編集がんばります。)本当にありがとうございます!


日本平ロープウェイさんにもご協力いただきました。写真は日本平ロープウェイの平井所長(右)とアドマック出版の興津。霧の濃い日本平山頂のロープウェイ駅にて。

2014/07/26

霧の久能山東照宮




きょう、霧の久能山東照宮は、ひときわ神聖な空気に包まれていました。御廟所参拝はあたかも德川家康公より無言のお許しをいただいたよう。東照大権現の御霊験に触れたような感動をおぼえます。

2014/07/18

徳川家康公のご遺骸は久能山東照宮に

徳川家康公のご遺体が眠っているのは、日光ではなく、久能山です。その証拠について、わかる限りをまとめてみました。

2014/06/07

余ハ此處ニ居ル(よはここにおる)

「余ハ此處ニ居ル」と書いて「よはここにおる」と読みます。旧仮名使いでは「ヨハココニヲル」となります。

久能山東照宮博物館所蔵「徳川家康公肖像」(興津諦によるデザイン)
*これも私的なデザインによるものですが、すでにあちこちで公的に使用されています。