2014/07/18

徳川家康公のご遺骸は久能山東照宮に

徳川家康公のご遺体が眠っているのは、日光ではなく、久能山です。その証拠について、わかる限りをまとめてみました。

まず、江戸幕府公式記録である『德川實紀』にも度々引用される『本光國師日記』の中から、駿府城にて薨去されるほんの二週間ほど前に大御所家康公が語った御遺言を見てみます。これは駿府城で家康公の側近だった本光国師こと金地院崇伝(こんちいんすうでん)が記録したもので、同じく側近だった天海僧正(南光坊)らと共に家康公から直接仰せつかった言葉です。

京都の南禅寺金地院にある『本光國師日記』原本
(写真は国立公文書館所蔵の写し)

御遺言の箇所(クリックで拡大します)
『新訂 本光國師日記 第三』校訂 副島種経
株式会社続群書類従完成会 昭和43年12月25日発行(p. 383)


徳川家康公御遺言(『本光国師日記』より)

元和二年卯月四日
南禪寺迄好便候而。一書令啓達候。一傅奏衆歸京之刻。以書狀申候。一相國樣御煩。追日御草臥被成。御しやくり。御痰なと指出。御熱氣增候て。事之外御苦痛之御樣体ニて。將軍樣を始。下々迄も御城に相詰。氣を詰申体。可被成御推量候。傅奏衆上洛之以後。事之外相おもり申躰候。拙老式儀ハ。日々おくへ召候て。→恭←御意共。涙をなかし申事候。一一兩日以前。本上州。南光坊。拙老御前へ被爲召。被仰置候ハ。臨終候ハ丶御躰をハ久能へ納。御葬禮をハ增上寺ニて申付。御位牌をハ三川之大樹寺ニ立。一周忌も過候て以後。日光山に小キ堂をたて。勸請し候へ。八州之鎮守に可被爲成との御意候。皆々涙をなかし申候。一昨三日ハ。近日ニ相替。はつきと御座候て。色々樣の御金言共被仰出。扨々人間ニてハ無御座と各申事候。此上ニても御本復被候て。御吉左右申入度候。内膳殿ゟ可被仰入候。恐惶謹言。
卯月四日 金地院


臨終となったら躰(からだ)をば久能へ納め
葬礼をば増上寺(ぞうじょうじ)にて申し付け
位牌をば三河大樹寺(だいじゅじ)に立て
一周忌も過ぎて以後
日光山(にっこうざん)に小堂を建て
勧請(かんじょう)せよ
八州(はっしゅう)の鎮守(ちんじゅ)になろう


以上を見ますと、どこにも「日光へ遺体を移せ」などとは言っていません。

中でも、「勧請(かんじょう)せよ」とはどういう意味でしょうか。
辞書によれば「神仏の分霊を他の場所に移しまつること。」(大辞林)とあります。実際に、「御霊移し」という神事が行われ、久能山から日光山へと、神様を移す行事が行われたわけですが、それは決して「久能山から遺体を掘り起こして日光まで運んで埋葬し直す」という意味でないことは明らかです。御遺言にも「勧請せよ」とあるだけなのです。

「勧請」については、お墓と仏壇の関係で考えるとわかりやすいかもしれません。久能山東照宮の落合宮司様のお話の中でも「日光は仏壇、久能山がお墓」であるという言葉がありました。埋葬するのはお墓ですが、どこの家にも仏壇があって、わざわざお墓へ出向かなくても、自宅にいながらにして先祖の霊を拝むことができます。それと同じように、久能山の家康公は、日光に勧請された、つまり日光に仏壇の役割を負う小堂が建てられたのであって、御遺体を日光へ運んでしまってお墓自体を完全に移動するという意味での、よく言われる「改葬」ではないのです。全てはこの御遺言の通りです。

また、「八州」とは江戸時代における「関八州」のことで、相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうづけ)・下野(しもつけ)の関東八か国の総称です。家康公が日光に祀って欲しいと言ったのは、この八州の鎮守、つまり守護神になるためだったということです。しかし、家康公は久能山に西を向いて「立って」埋葬されています。「立って」というのは、寝かせず座したままということですが、それも御遺言によるもので、そのような御遺言の記録は、『本光国師日記』とは別の記録にも残されていて、『德川實紀』にも記載があります。このように埋葬の場所と方法を遺言に遺したのは、天下統一を果たしたものの、まだ西の方から敵に攻めて来られることを恐れていたためですから、久能山に埋葬された御遺体をたった一年後にまた掘り起こして日光に運べなどと家康公が言うはずもありません。日光に行ってしまえば関東を守るだけになってしまうからです。


久能山東照宮落合宮司様のご講演より

他にもいくつか、久能山東照宮宮司落合様のご講演でのお話から事実を挙げておきます。
  1. 家康公の命日4月17日は久能山東照宮の御例祭で、御宗家は久能山東照宮にお見えになる。日光へは翌月の5月17日に行かれる。
  2. 久能山の御例祭では、御宗家は拝殿でお祀りされてからすぐ裏手山頂付近にある御廟所(家康公の墓所)に墓参をされるが、翌月の日光の例大祭では、日光にも奥宮(墓所)があるにも関わらず墓参はされない。
  3. 日光への御霊移しが行われて24年経ってから、久能山東照宮の御廟所は、木造から今のような荘厳な石造りのものに建て替えられている。
  4. 御霊移しについて、天海僧正(南光坊)は「あればある、なければないに駿河なる、 “く” のなき神の宮遷しかな」と歌っている。「く」とは「軀」(ご神体=ご遺骸)のことと推察できる。
久能山東照宮の御廟所
(徳川家康公が実際に埋葬されている墓所)


日光東照宮の奥宮
(徳川家康公は実際には埋葬されていないが御霊はここにもある)




德川實紀より御遺言箇所

江戸幕府の公式記録である『德川實紀(とくがわじっき)』の中から、家康公の御遺言が記された箇所です。


金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。大御所御病床に召て。御大漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戶增上寺にて行はれ。靈牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都には南禪寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拜せしむべしと命ぜらる。神龍梵舜駿府に參り。まうのぼり御けしきうかゞひ奉る。
(「台德院殿御實紀卷四十二」「國師日記。舜舊記」「元和二年四月二日」)


四月十六日納戶番都築久大夫景忠をめし。常に御秘愛ありし。三池の御刀をとり出さしめ。町奉行彥坂九兵衛光正に授けられ。死刑に定まりしものあらば此刀にて試みよ。もしさるものなくば。試るに及ばずと命ぜらる。光正久大夫と共に刑塲にゆき。やがてかへりきて。仰のごとく罪人をためしつるに。心地よく土壇まで切込しと申上れば。枕刀にかへ置とのたまひ。二振三振打ふり給ひ。劍威もて子孫の末までも鎭護せんと宣ひ。榊原內記淸久に。のちに久能山に收むべしと仰付らる。十七日すでに大漸に及ばせられんとせしとき。本多上野介正純めして。將軍家早々渡らせ給へと仰られしが。またそれに及ばずとの上意にて。わがなからん後も。武道の事いさゝか忘れさせ給ふなと申上べしと宣ふを御一期とせられ。淸久が膝を枕としてかくれさせ給ひしとぞ。此淸久は榊原七郞右衛門淸正が三男にて。はやうより近侍し奉り寵眷淺からず。御病中も日夜侍養して。さまざま御遺托どもあり。われはてなば遺骸は久能山に藏むべし。廟地はしかじかすべし。汝は末永くこの地を守りて。我に奉事する事生前にかはることなかれなど仰置れ。また東國の方はおほかた普第のものなれば。異圖あるべしとも覺えず。西國のかたは心許なく思へば。我像をば西向に立置べしと仰置れ。かの三池の刀も。鋒を西へむけて立置れしとなり。

(「續武家閑談。榊原譜。坂上池院日記。明良洪範。」「元和二年四月十六日」)


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