静岡商工会議所「余ハ此處ニ居ルプロジェクト」を紹介してくださっており、下野新聞様には、厚く御礼申し上げます。ただ、書かれている内容については、「日光に家康公の御遺骸がある」という結論にしたいようで、当方としましては、しっかりと反論しておかなければなりません。
この記事では、何とかして「家康公の御遺骸は日光にある」と証明しようとがんばっていますが、かえってそれが証明できないことであると、明らかになってしまったようです。以下が記事の後半部分です。
しかし研究者の多くは、遺体が日光に運ばれたことを規定の事実とみている。
上野寛永寺の元執事長浦井正明さん(76)は「家康は母於大の方が薬師に願をかけ、生前から薬師の申し子と言われた。でも彼は死んで薬師の元に帰った。代わりに世に遣わされたのが、神になった東照大権現という考え方をしている。従って家康と東照大権現はイコールです。日光東照宮の本殿の後ろの扉が観音開きになっているのは、拝殿までしか上がれない大名が、そこで東照大権現を拝むと、後ろの(奥社にある)宝塔の家康を拝むことになる。遺体が久能山に残っていては意味がないのです」と言い切っている。
東北大助教の曽根原理さん(53)も「天海編集の東照社縁起に(遺体を移した)藤原鎌足の例を踏襲したとあり、当時の宗教の感覚でいけば、移さない方がかなり不自然。素直に取るべきだ」と指摘している。
遷宮に同行した公卿烏丸光広は日光山紀行に「尊體を日光へ遷し奉らる」と記している。もっと重い事実は、家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っていることだろう。
以上の記事からわかる事実は少なくとも次の3つです。
(1)栃木県民や下野新聞も、日光東照宮に家康公の御遺骸が本当にあるのかどうか、確信できていないということ。
(2)なんとか確信しようとするために、「御遺骸は日光」という説を取る「研究者」の方々のご見解を必死に紹介しているということ。
(3)ところがそれら「ご見解」も、非常に脆弱な論拠によるもので、何の証拠にもならないということ。
それら「ご見解」に対して、以下に反論を試みます。
1 上野寛永寺の元執事長浦井正明さんのご見解について
「遺体が久能山に残っていては意味がない」と言われていますが、それはつまり、「日光の奥社に勧請された東照大権現が、霊としてそこに存在しても意味がない。意味があるのは御遺骸だ」と言ってることになります。それはつまり、「御遺骸イコール東照大権現だ」ということになり、「全国各地の東照宮が東照大権現をお祀りすることは意味がない」と言っていることと同じです。さらに言えば、日本の各家庭に仏壇があって、家人が仏壇に向かって先祖を拝むことも意味がないと言っていることになるのです。これは日本人の基本的な宗教心さえ無視した暴論というべきものです。
2 東北大助教の曽根原理さんのご見解について
「藤原鎌足の例を踏襲したとあり、当時の宗教の感覚でいけば、移さない方がかなり不自然。素直に取るべきだ」
曽根原さんの言わんとするところは少なくとも、「家康公の御遺命よりも『宗教の感覚』が優先された」という意味になるはずです。家康公の御遺命は「躰を久能山に葬れ」です。「宗教の感覚」といわれるものが、御遺命を破らなければならないほど重要だったのでしょうか? それが仮に重要だったとして、曽根原さんのご見解を正しいと認めるためには、将軍秀忠公をはじめとする幕府中枢にいた人々が「御遺命は破って良い」と考えていたという証拠が欠かせないものとなります。しかし歴史上、そんな証拠は存在しないのです。
3 公卿烏丸光広による日光山紀行での記述について
「尊體」の意味するところが何なのかが問題です。それが「土葬され十か月を経た家康公の御遺骸」という意味であるとする根拠がない限り、これも証拠にはなりません。
4 「もっと重い事実」について
これは下野新聞の記者さんのご見解でしょうけれども、「家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っていること」をもって、「家康公の御遺骸も日光に眠っている」とする証拠にはなりません。日光にも東照大権現は御鎮座されているのです。御鎮座されているからといって、御遺骸もあるという意味にはなりません。
そもそも狹い久能山には、家康公以外の誰一人とも、新たに墓所を作れるような面積がありませんし、仮に無理をして墓所を作るようなことをすれば、山ひとつ家康公の墓所として聳えているわけですから、その神聖なる墓所を侵すことになってしまいます。そんなことは、たとえ「二世権現」を名乗った家光公であっても許されないということは、家光公自身が一番よくわかっていたはずです。つまり、「家康を慕った3代将軍家光と、天海自身が日光に眠っている」ということは、かえって、日光が家康公の真の墓所ではないことを証明していることにさえなり得ます。
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